1.最近話題となった日本の環境問題
ダムや道路の建設見直しの動き
建設が予定されていたダム、道協の計画見直しが盛んである。あくまでも見直しであり、建設中止というわけではないが、完成してしまえば意味がない建造物について、考えようというのは正しい道への第一歩である。
もともと
道路もダムも、ほとんどが高度成長期の遺産的な計画であり、実際の工業生産、物流、水需要などは、技術の発達もあって予想をはるかに下回っている(加速度的に需要の高まる電力だけは例外だが)。
これによって、必要のなくなってしまったものは多いのである。一方でかつては不採算であっても意味があった道路計画もあることはある。たとえば、
高速道路は有事の際には、自衛隊が利用するルートとして使われる可能性があることが指摘されている。一部は滑走路として使える設計にさえなっている。世界の各国を見てもこれはごく普通のことである。
しかし冷戦終結後のいま、こういったものがどこまで必要なのかという問題もある。
もちろん、作っている間は地元住民への雇用や、それにともなう経済効果があるが、完成後の維持費等を考えると明らかにマイナスということもあるし、従来から生活に使われている国道・県道の改良をお座なりにしてのインターチェンジを使わなくてはならない高規格道路の建設といったものは、やはり見なおされなければならない。
ダムに関しては、周辺の整備、買収などに時間がかかるため、本体はできていなくとも、予算のほとんどはすでに注ぎ込み済み、という場合もあって、こうなるとなかなかストップすることが難しい。本体工事をしなければ、丸々がムダ金になってしまうわけで、責任問題になりかねないからだ。
しかし、
最近の動きは「環境」に価値を見いだすといった意識の高まりということも大きい。一度壊してしまうとなかなかもとには戻らないのが自然である。
長良川河口堰
昨今で最大の問題はやはり「長良川河口堰」の問題であろう。各地に河口堰が建設されつつある中、ひとつの象徴としておおいに注目され、そし成後もその推移が見守られている。
たしかにこの地域は、洪水に悩まされ、独特の堤防による水害対策が伝統的になされてきた土地である。しかし河口堰のもうひとつの目的、水利用に関してはすでに不要といえる情況であり、その存在価値は薄くなっていたのも事実である。そして、これによって長良川の自然は大きな打撃を受けた。
実際に、河口堰上の水質や各種生物の生息環境は予想を上回って悪化しており(予想の範囲内でそれほど悪化していないと否定する意見もあるが)、海水と淡水が入り交じる環境の微妙さが明らかになったともいえる。
また、河口堰の上流部分にあった浅瀬が微妙に淡水・海水を調整していたが、河口堰完成後に淺喋されてしまっているので、ここを復元しないかぎり、例え堰が解放されたからといっても、元の状態には戻らない。
この中でも、相模川の河口堰などは着々と工事が進んで完成しているし、その他の地域でも河口堰はさまざまな川で作られている。
一方、島根県の宍道湖、中海では、干拓とそれにともなう淡水化計画がシジミをはじめとする名産(宍道湖七珍と呼ばれている)の多い、汽水城ならではの漁業に対する悪影響が出るという懸念もあり、中止の方向で一時棚上げされている。
だが、すでに周辺の農地の改修が淡水化計画を前提に作られており、農業朋水の不足という問題も発生。溜め池の新設などといった方向での話し合いがもたれている。
しかし、諫早湾の潮止め堤防が稼働して起こった一連の事件もあり、まだまだこういった大規模な建造物による自然の改変についての検証と学習はこれからといったところだ。もし、大きな誤りであったと国が認め、その復元がなされることがあったとしても、そのときまでに自然が回復することができる程度で持ちこたえてくれているという保証はどこにもない。
河川問題
長良川河口堰、有明海干拓&ノリ問題と自然を大きく変える公共工事について注目されているが、実際に当初の見解以上の被害が出始めている。全国が注目しているケースだけに、報道される機会も多いので、かならずチェックしておくようにしたい問題である。
最近注目されているのが九州の川辺川ダム問題だ。漁業権の強制収用等という話でマスコミを賑わせているが、実はすでに下流部の工事によりダムがなくても洪水による被害はないだろうという内部文害があったことが公表され、ダムの存在意義が問われているということはあまり知られていない。
つまり「あとは本体工事だけというところまでお金を遣っているのだから」という理由で進めようというのである。
実際に公共工事により地元に利益、雇用を作るという方法はある。しかし、それでどうなるかというと、地元が潤うのは一時的になってしまうことも多く、残されたものは、破壊された自然環境と建造物を維持するための高額な負担、という場合もあるのだ。
景観を保ちつつ治水事業を行なおうということで「多自然型護岸」という考え方もよく聞くようになった。できるかぎり自然物を使い、河川の風景、生物とも調和した護岸を作るということである。ヨーロッパでは、岩と植物の組合せなどさまざまなものが研究されている。
だが、日本の場合は少し違う。山が海に迫る急峻な地形から、河川の増水は一度に起こり、その流れも急だということで従来通りのコンクリート護岸の上に士を敷き、そこに植物を植えるという方法が推進されているのだ。しかし、本当にコンクリート護岸である必要があるのだろうか。
従来どおりの工事をしたうえで、見かけだけ整えるのものではないだろうか?また、似たような話で、工事を推進している側からすると、砂防ダムは「山の崩壊を防ぎ、景観を守る」ために必要なのだという。しかし、砂防ダムが存在する景観は決してよいものでも、守られた自然な景観でもないことは言うまでもない。
しかし、こういった考えの人たちがいるということは理解しなくてはならない。もし、
改めて自然の状態に戻すことがあったとしても、こういう知識と技術を持って開発をやってきた人の力なしではできない。これからは開発の否定ばかりではなく、お互いの交流から接点を見付けていくようなことも必要になるだろう。
2.海洋汚染と環境破壊
海洋の汚染問題はさまざまな現象が報告されている。
ダイオキシンのような汚染物質は、すでに南極海へも達していることが魚類の調査から判明しているし、船の底に生物が付着しないように塗られている塗料の毒性についても報告がされている。
また、養殖で使われる薬剤による汚染も指摘され、この広い海であっても、化学物質による海洋汚染だけをとっても危機的情況であるというのが現状である。
また、タンカー事故を原因とする原油流出による汚染も多く見られる。これは現在のエネルギー事情を考えればある程度は避けられないとも言えようが、それによる生物たちへの被害は甚大である。
原汕については、石汕を食べて害化するバクテリアの研究が進んでおり、近い将来その利用による浄化作業が行なわれる日も来るかもしれない。
さらに問題となっているのが海洋資源としての魚、つまり
漁業についてである。経済問題でもあるだけに、さまざまな国や団体の思惑が絡み付き、純粋に環境問題、生物保護問題とは言えない部分もあるが、資源が有限であることは事実である。
漁業国である日本はクジラ、マグロなどで矢面に立たされることが多いが、科学的な調査と、それに基づく漁獲こそが資源の有効活用につながるということだけは指摘しておきたい。
また、近年、クジラの保護によって一部の種類の頭数が増えすぎ、漁業などに被害が出ているという指摘があり、絶対的なクジラ保護論にも揺らぎが出てきている。小型種のミンククジラが特にそう指摘されているが、この種類が増えすぎることにより、餌の問題で他の種類の増殖が妨げられているのではという疑問もあってさらなる研究や調査が待たれる。
生物濃縮
各地の公害病で問題になったのは魚を食べることである。日本人ほど魚を食べない欧米では、魚を食べる鳥にまず影響が出たし、水俣病でも、最初に異常が見られたのはネコだったという。
なぜこんなことが起こるのか、というと、食物連鎖による「生物濃縮」という現象があるからだ。つまり、毒性を持った物質は、栄養分同様、生物の体に蓄積されやすい。
だから
水を検査しても無害な程度の検出量であっても、植物プランクトン、動物プランクトン、それを食べる小型の魚、さらにそれを食べる大型の魚、と連鎖していくにつれ、徐々にその蓄積量は加速度的に増加し、ついに鳥やネコ、人間で中毒症状が発症するという構造を生み出してしまう。
なお、同様に農薬は農作物のもっとも栄養のある場所に蓄積するという。体によい栄養がいっぱい入っている玄米より、その部分を取り除いた白米の方が安全だという人さえいるし、事実農薬はその部分に蓄積されている。
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